境内のご案内
玉津島神社・鹽竈神社の境内・みどころをご紹介します
玉津島神社
鹽竈神社
玉津島神社本殿
1606年(慶長11年)紀州を統治した浅野幸長が修復・造営したものだが、長い年月を経て荒廃甚だしかった。1992年(平成4年)多くの方の御浄財を得て、蝋色(ろいろ)施工の漆塗りが優美な春日造りの社殿など往時を彷彿させる姿となった。内陣外壁3面には名勝和歌の浦の風景、根上り松などの絵が描かれている。和歌山市指定文化財
神輿(しんよ)
後桜町天皇の執政関白近衛内前(このえのうちさき)が、京都の神輿師桑嶋右衛門に作らせ、1767年(明和4年)、当社に奉納した。現在最後の女性天皇・後桜町天皇が、聖武天皇の故事にならわれ春秋二時に祭祀を斎行、その際この神輿が用いられたと記録に残る。240年を経て傷みが激しかったが、2007年(平成19年)に多くの方の御浄財で往時の優美な姿そのままに復元された。和歌山県指定文化財
拝殿
別名「歌仙殿」といい、36枚の三十六歌仙額が飾られていることに由来する。当社での神前結婚式の挙式場や各種祈祷の場であり、三十六歌仙額の他にも後奈良天皇宸翰様扁額や神輿を安置する。
三十六歌仙額
1660年(万治3年)、初代紀州藩主徳川頼宣の寄進による。絵師は紀州藩のお抱え絵師・狩野興甫、詠歌は当時能書家として知られた京都の公家や門跡が筆を執り、詠歌筆者を示す付札は紀州藩の儒臣李梅渓が務めるなど、制作の経緯が詳細に判明する点でも重要。(現在、和歌山市立博物館で保管、拝殿には複製を掲出。)和歌山市指定文化財
後奈良天皇宸翰様扁額
戦国時代、能書家で知られた後奈良天皇による御宸筆。「南無」は仏教用語(サンスクリッド)で尊いという意味。5代紀州藩主徳川吉宗(後に8代将軍として徳川宗家を継承)が、この御宸筆(掛け軸)を入手、玉津島神社に奉納した。
徳川頼宣公寄進石燈籠
初代紀州藩主徳川頼宣が1655年(明暦元年)に寄進。(以下加筆)和歌山市指定文化財
霊元天皇眼病平癒寄進石燈籠
霊元天皇が眼病快癒したとして1714年(正徳4年)に寄進。(以下加筆)和歌山市指定文化財
大鳥居
1998年(平成10年)に老朽化のため再建。備中檜による木造明神鳥居。
南大鳥居
南大鳥居:1997年(平成9年)、老朽化のため撤去されるも、2020年(令和2年)12月23日に再建。
東鳥居
東鳥居:第三基目の鳥居として、2023年(令和5年)12月25日に再建。
歌枕展望広場
沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちい隠り行かば思ほえむかも(山部赤人)
庭の景石として珍重される紀州青石の小道の先に、今日でもここに登れば、万葉集に詠まれた「荒磯(ありそ)」に相当する古代の海岸の痕跡を見下ろすことができる展望広場がある。
万葉植物の庭
万葉集に詠われた草花を集めた小庭。なでしこ、おみなえし、ひおうぎ、やぶかんぞう等。
小野小町袖掛けの塀
"小野小町は古(いにしえ)の衣通姫(そとほりひめ)の流れなり"
かの紀貫之による最初の勅撰集「古今和歌集」の序であるが、意味については昔から二通りの解釈がある。 一つは衣通姫の美しさが衣を通すと称されることから、小野小町も美しいという説、もう一つは容姿ではなく二人の歌風が似ているという説。この「袖かけの塀」の伝承も、そんな二人の所以に由来するのかもしれない。
根上がり松
根上りの松とは、根元にあった砂が海風で吹き飛ばされ、長い年月の間に根が露出したもの。鎌倉時代や室町時代、当社に社殿も鳥居もなかった時代、玉津島にも根上り松の巨木があり、是を玉津島明神の神霊の宿る寄坐として和歌を奉納、絵馬をかけ礼拝なされた(『慕帰絵詞』等)。
この「鶴の松」は、元は和歌山市内高松に在り、江戸時代の『紀伊国名所図会』で、特に奇観として描かれる等、和歌山名物の一つであったが、1921年(大正10年)枯木となったので当社に移し、往時の玉津島を想起させるものとして大切に保存している。
ソトオリヒメ桜
国立遺伝学研究所の故竹中要博士により育成された品種。当社のソトオリヒメ桜は、竹中博士が育てた「遺伝研の桜」から接ぎ穂をゆずりうけたもの。なお当社には他にも花期が異なる桜が20種類以上植樹されており、春には順番に満開になる。
クマノザクラ
2018年(平成30年)に新種と判断された和歌山県南部原産の日本固有種の桜。現在、境内には熊野市からゆずりうけたクマノザクラが10本植樹されている。
トキワマンサク
山部赤人の万葉歌碑のそばで咲き誇る。花期は5月頃。鮮やかな赤紫色で、花びらは細長いリボンのような形。春に樹全体を覆うようにして咲く姿は見応えがある。
山部赤人の万葉歌碑
1300年前、聖武天皇行幸に随行した宮廷歌人山部赤人が詠んだ玉津島讃歌。赤人は後に歌聖と呼ばれ、かの紀貫之も「古今和歌集」の序で「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と評する。 万葉学者・犬養孝氏(大阪大学名誉教授)が揮毫。
藤原卿の万葉歌碑
"玉津島見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため"
1300年前の聖武天皇行幸に随行した藤原卿の歌。藤原卿とは藤原房前(ふささき、大化の改新の中臣鎌足の孫、藤原不比等の子、聖武天皇の光明皇后の兄)。詩歌に優れる。房前を祖とする藤原北家はいわゆる摂関家となり、藤原氏の中で最も繁栄した。書家・辻本龍山揮毫。
奠供山碑
奠供山の由緒と天保期の奠供山山頂の整備の次第を記載。江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つ。和歌山市指定文化財
奠供山登りロ
724年に聖武天皇が登り、詔を出したとされる奠供山。明治末から大正初期には奠供山頂に登るエレベーターがあった。 1911年(明治44年)には夏目漱石が和歌の浦を訪れ、評論「現代日本の開化」と小説「行人」でこのエレベーターを取り上げている。
望海楼遺址碑
和歌の浦の景観の変遷と変わりない美しさを称える内容。江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つ。和歌山市指定文化財
金髙稲荷社
江戸時代、田沼意次が紀州藩士から老中にまで出世できたのは、屋敷に稲荷を祀っていたからと評判になり、小祠の稲荷を屋敷や寺社境内に勧請することが盛んになった。 また金高は一文字で「鎬(しのぎ)を削る」の鎬の意。すなわち出世開運が御神徳である。
芭蕉句碑
“行く春をわかの浦にて追付たり”
1688年(元禄元年)、松尾芭蕉は高野山参詣の後、3月末に陽春の和歌の浦に至り、句を詠む。
当地は、最北端「みちのく象潟」に対し「芭蕉翁足跡最南端の地」とされ、1833年(天保4年)に紀州徳川家により建立されたこの句碑が現存する。
鹽竈神社
安産・子授け・不老長寿の神様をお祀りし、「しおがまさん」の愛称で親しまれている。
輿の窟
鹽竈神社のある輿の窟は、鏡山を覆う伽羅岩を太古の波が侵食してできた岩穴。室町時代まで毎年、天野丹生明神の神輿が玉津島へ渡御する「浜降り神事」があり、まずこの輿の窟に神輿を収めて清め祓いした。
山部赤人歌碑
1952年(昭和27年)、歌人で書家の尾上八郎(柴舟)の流麗な書によって刻まれ、県内随一の格調の高さを誇る。
鏡山
玉津島六山の一つ。奠供山と同じく、結晶片岩が絶えず海蝕を受けたことにより、今日の奇抜な岩石美を成すに至る。
不老橋
10代紀州藩主・徳川治宝の命により、1851年(嘉永4年)に完成したアーチ型の石橋。橋台のアーチ部分については肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石工石屋忠兵衛の製作とされている。江戸時代のアーチ型石橋は、九州以外では珍しく、勾欄部の彫刻は特に優品である。
伽羅岩
伽羅は沈香という香木の中で最高質の物を指し、かの正倉院宝物「蘭奢待」も伽羅である。伽羅の木目のような岩肌で、江戸時代の書物には「皆木目有りて甚だ美也、他州にては未だ見ざる所なり」と紹介されている。
市町川と奠供山
奠供山は今から1300年前、聖武天皇が玉津島行幸の際に登られ、詔を発せられた旧蹟。山称の奠・供ともにお供えの意である。 市町川は大正時代に埋め立てられた干潟の残証である(大正時代まではここも海であった)。
和歌の浦干潟
“ わかの浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 芦辺をさして 鶴鳴きわたる”
刻々と移り変わる干潟の風景は、万葉の歌人・山部赤人が万感の叙情を歌に綴らせるほどの絶景。