玉津島神社-歴史
玉津島神社の歴史、天皇や貴族、歌人との長く深いゆかりをご紹介します
歴史
玉津島が初めて文献に登場するのは奈良時代、神亀(じんき)元年(724)の聖武天皇の玉津島行幸です。『続日本記(しょくにほんぎ)』には、この地の景観を末長く守り御霊を祀るよう聖武天皇が詔勅(しょうちょく)を発したと記されています。その後、称徳天皇と桓武天皇も玉津島行幸を行いました。
また、聖武天皇の行幸に随行した歌人・山部赤人らの歌が『万葉集』に収められ、「玉津島」は、「和歌の浦」と共に万葉の歌枕(うたまくら)として都人にとっての憧れの地になります。
さらに和歌三神(わかさんじん)の一柱(はしら)・衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が祀られているため、平安時代から宮中貴族や歌人たちの参詣や和歌奉納が行われました。江戸時代には7人の天皇・上皇が、古今伝授(こきんでんじゅ)後に宮中で法楽歌会を催し、御宸筆(しんぴつ=自筆)和歌短冊を奉納しました。ほか文人墨客(ぼっかく)も多数訪れ、和歌の神への崇敬は絶えることなく続いています。
古代・中世の社殿については明らかではありませんが、江戸時代初め紀州を統治した浅野幸長(よしなが)により社殿が再建され、1992年(平成4年)篠田博之・めぐみ御夫妻を中心とした多くの市民の御浄財により、本殿が全面修復されました。玉津島神社は2010年(平成22年)、国指定名勝「和歌の浦」に、2017年(平成29年)には日本遺産に指定されています。
年表
724年(神亀元年)10月 | 聖武天皇が紀伊国玉津島に行幸。山部赤人が若の浦や玉津島の歌を作る。 |
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765年(天平・神護1年)10月 | 称徳天皇、玉津島に行幸。望海楼に御す。 |
804年(延暦23年)10月 | 桓武天皇、玉津島に行幸。船遊びを楽しむ。 |
1308~17年(延慶~政和年間) | 本願寺覚如(かくにょ)、和歌の浦に遊び、玉津島社に法楽歌10首を奉納(この覚如参詣の様子を描いた『慕帰絵詞(ぼきえことば)』巻7が、玉津島社を描いた絵画では現存する最古のものとされる)。 |
1585年(天正13年)3~4月 | 羽柴秀吉、和歌の浦・玉津島・紀三井寺を遊覧。 |
1605年(慶長10年) | 紀州を統治した浅野幸長(よしなが)、玉津島社の再興に着手。翌年社殿完成。 |
1660年(万治3年)4月 | 初代紀州藩主・徳川頼宣(よりのぶ)、玉津島社歌仙殿建立。三十六歌仙絵寄進。 |
1664年(寛文4年)6月1日 | 後西院、玉津島社へ御製(和歌)等50首を奉納。 |
1683年(天和3年)6月 | 霊元天皇、玉津島社へ御製等50首を奉納。 |
1714年(正徳4年)8月 | 藩主徳川宗直、玉津島社へ霊元天皇等の『月次法楽和歌』上下2巻を奉納。同月、中院通躬、玉津島社へ詠歌3首を奉納。 |
1744年(延享元年)6月 | 桜町天皇、玉津島社へ御製等50首を奉納。冷泉為村、玉津島社へ父為久作の「吹上八景手鑑」を書写奉納。 |
1760年(宝暦10年)3月 | 桃園天皇、玉津島社へ御製等50首を奉納。 |
1767年(明和4年)3月 | 後桜町天皇、玉津島社へ御製等50首を奉納。後桜町天皇の執政関白近衛内前、神輿を奉納。 |
1797年(寛政9年)11月 | 光格天皇・後桜町上皇、玉津島社へ御製等を奉納。 |
1842年(天保13年)12月 | 仁孝天皇、玉津島社へ御製等50首を奉納。 |
1992年(平成4年) | 本殿、篠田博之・めぐみ夫妻を中心とした多くの市民の浄財により修復。 |
1994年(平成6年) | 犬養孝文学博士揮毫による山部赤人の長歌と反歌の歌碑が、玉津島神社境内に建立。 |
2007年(平成19年)4月 | 1767年奉納の神輿、篠田めぐみ氏を中心とした市民有志により修復。 |
2008年(平成20年)6月 | 玉津島神社境内地が県指定文化財に指定(和歌の浦一帯が県「史跡名勝」に)。 |
2010年(平成22年)8月 | 玉津島神社とその周辺約90㎡が国指定名勝「和歌の浦」に指定。 |
2013年(平成25年)5月 | 神輿、県指定文化財美術工芸品に指定。 |
2014年(平成26年)4月 | 拝殿修復。 |
2017年(平成29年)4月 | 玉津島神社とその周辺が日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」に認定。 |