玉津島神社

玉津島神社とは

京に勧請(かんじょう)・新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)

京都に、玉津島神社の衣通姫尊(そとおりひめのみこと)を祀る神社があります。歌人・藤原俊成(しゅんぜい)(1114~1204)が、玉津島神社から勧請(かんじょう)し創建した「新(にい)玉津島神社」です。
俊成は藤原定家(ていか)の父で、後鳥羽院の信任を受けた当代歌壇の第一人者。白河法皇の勅命を受けて『千載(せんざい)和歌集』の選者も務めた歌人でした。
和歌の神・衣通姫尊に憧れた俊成は1186年(文治2年)、後鳥羽天皇の勅旨を得て衣通姫尊を勧請し、自分の邸内に新玉津島神社を建立しました。
鎌倉時代にはここに「和歌所(わかどころ)」が置かれ、室町時代には足利家の保護のもと和歌の聖地として崇められます。1367年にはここで、2代将軍足利義詮(よしあきら)による歌合わせも行われました。

また、新玉津島神社に衣通姫尊を勧請したのは頓阿(とんあ(な))(1289-1372)だという説もあります。頓阿は、吉田兼好と共に和歌四天王と称され、『新拾遺(しんしゅうい)和歌集』の選者を二条為明から引き継いだ歌人であり、僧でもありました。頓阿が衣通姫尊を五条の俊成の屋敷地に勧請し、将軍義詮が社殿を新造したとの記録もあります(吉田家日次記)。
その社殿は応仁の乱などで消失しますが、江戸時代に再興しました。再興に大きな役割を果たしたのは、江戸時代の著名な国文学者で俳人の北村季吟(きぎん)(1625-1705)です。同神社の神官となった季吟は、その翌年、憧れ続けた紀州の玉津島神社と和歌の浦を訪れて和歌を詠み、京に戻ってから新玉津島神社境内に和歌の浦を模した庭を造りました。
季吟は、俳聖・松尾芭蕉の師です。また、徳川5代将軍綱吉の側用人(そばようにん)として知られる柳沢吉保(よしやす)に古今伝授(こきんでんじゅ=古今集の中の語句の解釈に関する秘説などを、特定の人に伝授すること)を授けました。そのため、芭蕉が和歌の浦を旅したことと、吉保が江戸に和歌の浦の名所を配した大名庭園「六義(りくぎ)園」を造ったことには、季吟の影響があったと言われています。
新玉津島神社は今も、俊成邸があった現在の烏丸通松原の一画にあり、周辺は玉津島町と名付けられています。

Page TOP