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玉津島神社

かつて万葉の歌人がその美しさに心ふるわせた、悠久の和歌の浦と神々の霊験

玉津島神社について

◉ 御祭神と御神徳
稚日女尊
(わかひるめのみこと)
幸先開運、縁結び、病気平癒、商売繁盛
息長足姫尊
(おきながたらしひめのみこと)
(神功皇后)
交通安全、乳授け
衣通姫尊
(そとおりひめのみこと)
芸能和歌上達、学業成就
明光浦霊
(あかのうらのみたま)
聖武天皇が祀るように命じた和歌の浦一帯の御霊、すなわち産土神(うぶすながみ)です。
◉ 例祭日

4月13日

由緒

玉津島一帯はまたの名を玉出島ともいわれ、いにしえ島山が恰も玉のように海中に点在していたと想像され、かの山部赤人の長歌に、「神代より然ぞ尊き玉津島山」と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところとして崇められてきました。

玉津島社の創立は極めて古く、社傳によれば、「玉津島の神は、〝上つ世〟より鎮まり坐る」とあります。

稚日女尊(わかひるめのみこと)は、諾・册二尊の御子であり、天照大御神の妹神にあたらせられ、後世又の御名を丹生都比賣神(にうつひめのかみ)と申し上げられています。

息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は即ち神功皇后です。 皇后が海外に軍をおすすめになられたとき、稚日女尊が非常な霊威をあらわされたため、皇后これに報われ御分霊を今の伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮め申し上げ、爾来玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる玉津島に渡御する、所謂浜降りの神事が應永の頃(1429)まで行われました。 稚日女尊を尊崇せられた皇后は後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀されることとなりました。

衣通姫尊(そとおりひめのみこと)は、第十九代允恭天皇の妃で絶世の美人であられ、その麗しさは名のとおり「衣を通して光り輝いた」と伝えられ、又殊のほか和歌の道に秀でられたことはよく知られています。 衣通姫尊は、第五十八代光孝天皇の勅命により当社に合祀されました。 これは天皇の御夢枕に尊が現れて、「立ちかえり またもこの世に跡垂れむ 名もおもしろき 和歌の浦波」との一首を詠じられた故事によるもので、これより玉津島の神は、住吉大神(攝津)・柿本大神(明石)とともに〝和歌三神〟の一つとして、朝廷はもとよりひろく一般文人墨客から崇められてきました。 後世、後西・霊元・桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・仁孝天皇の御代においては、「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会が宮中で催されました。 これら当社に奉納された天皇御宸筆になる御製御短冊は、現在も重要美術品として保管されています。

神社背後の小高い岩山は奠供山(てんぐやま/標高33m、奠・供ともおそなえの意)と呼ばれています。 玉津島はまた奈良・平安朝の聖武・稱徳・桓武三帝にもこよなく愛され、この地を訪れ滞在されました。 所謂〝玉津島行幸〟です。とくに聖武天皇はこの山に登られ、『山に登りて海を望むにこの間最も好し 遠行を労せずして以て遊覧するに足る 故に「弱浜」の名を改めて「明光浦」と爲せ 宜しく守戸を置きて荒穢せしめることなかれ 春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ』との詔勅を発せられ、これにより明光浦靈を併せてお祀りすることになりました。

なお当社のもとの本殿は慶長年間、初代紀州藩主浅野幸長侯が造営されたものでありますが、荒廃甚しく、幸い奇篤者(篠田博之・めぐみ様御夫妻ほか)の御浄財を得て、平成4年秋社寺建築の粹を施しその修復が完成し往時の絢爛たる姿が再現されたものとなります。
 

玉津島神社とうさぎ玉津島神社とうさぎ

古来、うさぎは月の精とされ、子孫繁栄や豊饒、幸福をもたらす神の使いとされていました。
玉津島神社の祭神である息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)/神功皇后が海外へ出征する際、
稚日女尊が非常な霊威をあらわされたことから
厚く尊祟され、後に御自身も卯の年・卯の月にちなんで当社に合祀されました。
この故事に由来し、非常に深い縁で結ばれた玉津島神社とうさぎ。
神紋や授与品の数々に、かわいらしいうさぎの姿を見ることができます。